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 このブログは、昭和36年3月に宮崎県小林市の中学校を卒業した、同級生146名の近況報告をはじめ、同級生同士の情報交換や同窓会開催連絡、昔の思い出などを語り合うためのものです。総ての記事は同級生からの投稿で運営していきます。ブログ記事の文字を大きく表示して見易い画面フォーマットに変更しました。パソコン画面を横に広げると、ブログ記事も横方向に広がり、1行当りの文字数が増えて読み易くなります。【平成27年3月23日】


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歩き遍路は前回終わった所から歩き始める。(其処まではバス移動)
11番札所『藤井寺』から歩き始めた。
寺の裏からすぐ上り坂になり山の中へと入って行く。
回を重ねる毎に遍路仲間との会話も弾むが今回はその余裕など無い。
登山道のような遍路道は皆寡黙に成りひたすら登っていく。道は次第に狭くなると同時に阪もきつくなってくる。
出だしは快調だった。私より年配の人の後ろを時々押しながら登った。

ところが途中休憩してさて立ち上がろうとした時、私の体に異変が生じた。
体全体が重いような、真綿で縛られているような、何とも奇妙な不気味な違和感に襲われた。
「どうしよう どういう事だろう」何の前兆も無かったのに、もう歩けないかもしれないと一瞬思った。
「私、なんだか体がおかしいです」と先達に告げると、「持ってきた塩を舐めなさい」と言われた。 
言われたとおり持参していた塩を舐めると、違和感はスッとなくなった。
まるで魔法みたいだった。
それ程汗をかいたとも思わなかったが、体が塩分を欲しがっていたようだ。
適切なアドバイスは流石に山歩きのプロであった。

そして私は何事も無かったように又歩き始めた。
黙々歩く遍路は何を思い、何を懺悔し、何を願って歩いているのだろう 。
九十九折の登り道はだんだん険しくなる。
谷底と隣り合わせの遍路道は『分け入っても分け入っても青い山」と、種田山頭火がうたったような深い山々は何処までも続いていた。
昔飛行機の窓から四国を見下ろした事がある。本当に山ばかりだった。
その山のどこかを今私は歩いている。
遍路に出ると何故かしら心が落ち着く。
「何故だろう、」「何故だろう」といつも思っていたが、山々の『森林浴効果』があるのではないかと思い当たった。
遍路道は昔からの自然そのままで静かに訪れる人々を包み込んでいるようであった。

登るにつれて皆の足取りは遅くなり喘ぎながら、一歩、又一歩、と歩くのが精一杯になってきた。
ジグザグの道が続く。
「あの曲がり角まで行ったら休憩にしよう」「さぁ頑張ろう」声を掛け合って頑張った。

山道は一層急峻に成り、次の曲がり角どころか10歩歩いては立ち止まり否5歩歩いては立ち止まりを繰り返した。
1歩歩くのさえ大変である。大袈裟に言えば登山家が雪中のヒマラヤを一歩一歩踏みしめながら登るそんな感じである。 
苦しい、でもこんな山の中で引き返すことは出来ない。何としてでも歩かねばならない。
その時突然リュックがヒョイと軽くなった。ホンとに「ヒョイ」と......。
驚いて振り返ると先達がリュックを押してくれていた。

「あッ、ありがとうございます」 リュックを持ち上げている訳ではない。少し押しているだけである。 こんなに軽く感じる事を体験した。
 
余談になるが昨年10月『偶然会』の旅行で和歌山県の那智大社に行った。
此処は参道の石段が結構キツイ。階段の苦手な I・光信さんの後ろを女性たちが代わる代わる押してあげた。
彼は凄く喜んだ。こんな時女性たちは皆親切である。
和ちゃん、ウメちゃん、田鶴ちゃん、弘子ちゃん、上田さんの奥さん、西村さんの奥さん、私、と後からユックリ上りながら、写真など撮りながら上った。 
 I・光信さんもこんなに女性にもてた事は無かったかも?
『女性の皆さんがいなかったら那智の滝や那智大社をお参りすることは出来なかったよ~ 諦めていたのにありがとう 良かったぁありがとう、ありがとう~』と皆に心からお礼を言った。
瀬戸内寂聴さんも言っていたが手も触れずに『気』を送られるだけで軽くなると。

皆「頑張ろう」「あと少し」等と自分で自分を励ますように声を掛け合いながら登っていく。
喘ぎながら上を見あげると木の間隠れに峠らしい所が見えてきた。
「あッ 峠は近いぞ!!」誰かの声に皆元気を奮い立たせたが、足取りは重い やっとの思いで峠にたどり着いた。
其処には大きな見あげるような弘法大師像が迎えてくれた。
この様な凄い山の中によくぞこの様な大きな建造物を建立できたものだと先ずは驚き手を合わせた。
この道を通らないと出会うことの出来ない弘法大師像である。
束の間の安息であった。 
後から着いた人たちの休憩時間は短かった。
登り切った安堵感も束の間、今度は下りが待っていた。



足のすくむ様な下り坂は登りよりも注意が必要である。 
転ばぬように、躓かないように、一歩、一歩下るのは大変であったが、お陰様で怪我する人も無く夕暮れ時ようやく12番札所『焼山寺』(しょうざんじ)に到着した。
納経は17時までと決まっているギリギリセーフだった。
般若心経を唱え納経を済ませやっと四国遍路最大の難所と言われる『遍路転がし』を乗り切ることが出来た。
しかしこれで終わった訳ではない今夜の宿まで此処から1時間程歩かねばならない。

寺を出る時、すでに暮色蒼然である。
下り始めるとすぐに日はとっぷりと暮れて、懐中電灯の明かりを頼りに下山した。
夜道を歩いたのは初めてだった。 
前方を歩く白装束の遍路衆の姿が暗闇に白く「ぼ~っ」と浮かぶ様子は、知らない人が見たら不気味に見える光景であった。
バスが待って居る道路に出た時やっと安堵した。 10年ほど前の話である(終)【H・靖子】


 
【補足&写真】今回の投稿記事は、11番札所から12番札所までの最大の難所『遍路ころがし』歩きの体験談.....その移動距離は約13Km(地図参照)といわれているようです。
写真は11番『藤井寺』と12番『焼山寺」。その間の『遍路ころがし』....いずれもインターネットから借用しました。
いづれも写真上でクリックすると拡大します。【K-正人】
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兎に角歩く事は良いらしい。
テレビを見ても病院に行っても口をそろえて「歩きなさい 歩きなさい」と言う。
運動不足の私は最近太り気味だ。
足が痛くなったなどと言って歩かないうちに、私の体は「まだ成長するの?」と訊いてみたいほど膨らんできた。
アチコチの脂肪の塊を見ながら溜息をつく毎日である。

さて、昔歩いた『歩き遍路』はさすがに凄かった。
『遍路ころがし』と呼ばれる難所がいくつかあった。
名の通り遍路を転がすような急峻な遍路道の別称である。
この事は次の機会に..... 素晴らしい旅の記憶がある。
歩き遍路だからひたすら歩いて廻る。
四国は山が多いので、山歩きは半分以上あった。
一山越えて二山越えて三山目の中腹にお寺があったりした。
こんな時は絶対歩ける自信が無くては参加できない。
 山の中で具合が悪くなっても、自力で脱出しなければいけない過酷な旅である。

遍路が白い服を着るのは『死に装束』であるし、杖に所と名前を書くのは『墓標』になるからだ。
昔の旅は命がけの修行だった。
今は救急の体制があるはずだから何とかなるのだろう。
ある時、山の尾根をたった一人で歩いたことがある。
10数名の遍路の列は、体力の差や気力の差などから、次第に間隔が広がって行く。 
私なりに一生懸命歩いているのに、気が付くと前も後ろも誰もいなかった。
人の声も聞こえない。草をかき分けながら歩くのは私たった一人であった。
四国の深い山の尾根をひたすら一人で歩いて行く。
その日は天気も良く気候もいい時期だった。 
後方には先達もいるので、不安も無く寂しいとも怖いとも思わなかった。 
時折聞こえる鳥の鳴き声や、谷から吹き上げてくる風に汗ばんだ体が癒される。

世知辛い(せちがらい)世の中の動きも、自分の心にある不平や不満もすべて払拭された。 
頭の中は空っぽになった。只吹く風の心地よさに身を任せながら歩いた。
吹いて来る心地良い風だけなのに、私の心はなんと幸せに満たされていた事だろう。
誰もいない.....大きな声で歌いたいような気分だが歌わなかった。 
歌っても誰にも聞こえない安心感は心の洗濯だったかもしれない。   
私は歩きながら考えた。人間はどうして束縛の中で生きているのだろうか。
暮らし易い為、生き易い為に出来た決め事(法律)が多すぎる世の中だなぁ~。 
せめて心の中だけでも自由に愉しい事を思いながら過ごしたいものだと.....。

一人遍路は寂しげに見えるが、体験してみるとそうではなかった。
決して孤独ではなく、寂しくも無く、満たされた心とともに歩いているのだと思った。
今も懐かしくあの時の事を鮮明に思い出す。
あの尾根を歩いた時の爽やかな、心地いい風の囁きは何年経っても癒されるのである。
遍路は決して一人ではない『同行二人』......傍には必ず弘法大師様がいらっしゃるのだから。
皆守られて生きている。【H・靖子】

【写真】朝の散歩の途中の公園で見つけた棕櫚(しゅろ)の木。
この棕櫚の木の『枝』で『蝿叩き』を作っていた。
更に、この木の皮を剥いて『わらっごろ』で叩き、皮を繊維だけにして『棕櫚縄』を編んだ記憶がある。
この『棕櫚縄』は『藁縄』よりも数十倍強かったし、水に濡れても腐るようなことはなかった.....。
『棕櫚縄』は、今でも庭師が樹木の支柱などを縛り付けるのに使っている。
最近は棕櫚の木の手入れもされてなくて可哀そうである。【2017.6.14撮影】


美男蔓(びなんかずら)に出会ったのは10年余り前になる。
その頃私は還暦を節目に「四国88箇所」巡りをしていた......と言っても貸し切りバスのツアーだから一番楽な遍路である。
『楽』と言えども、それは弘法大師が開いた霊場を廻る修行の1年である。
バスツアーとは言え満願に達した時は晴れ晴れとした達成感があった。が、究極は『歩き遍路』らしい。
ツアーが終わってみると「歩いてみたい」と思うようになった。
しかし、あの山深い四国の遍路道を一人で廻る勇気は無かった。
そんな折、和歌山から『歩き遍路ツアー』の募集があった。
「待ってました」とばかりに早速申し込んだ。

歩き遍路は四国4県(徳島、高知、愛媛、香川)を4年かけて回ると言うツアーである。
最初は1番札所徳島の霊山寺(りょうぜんじ)から始まった。
十数名の歩き遍路である。
夫々遍路の目的は違う。夫々がそれぞれの思いで歩くのである。
先頭と最後尾に先達(せんだつ)と呼ばれる遍路の案内人がいる。
その上、途中歩けなくなった人はバスが並走しているから、なんにも心配は無い。
しかし、山道に入るとバスを当てにはできないので、自力で歩かねばならないのだ。 

ある時、山の中を歩いていると脇の木々の中に赤い実を見つけた。  
緑の葉っぱの間に赤い実が一際目立っていた。皆、その赤い実を囲んだ。 
ピンポン玉より少し大きいまん丸な赤い実は中に小さな粒が固まっていた。 
私は始めてみる植物だった「世の中にこの様な美しい形の植物があるとは.....」とはじめて見る美しさに言葉を失うほどの衝撃だった。
ジッと見つめて感嘆した。
これは『美男蔓』だと誰かが教えてくれた。 

緑の木々の間から5つ6つ赤い実が紐に吊るされたように、垂れ下がって艶やかに輝いていた。

『美男蔓』どうして美男なんだろう.....何で美女ではいけないのだろう。

素朴な疑問にネットで調べてみた。 
昔、この蔓を削って水に浸すとネバネバした樹液が出てくる。
それを武士たちの整髪料として使ったとある。
さぞかし今で言うイケメンになった事だろう。   

遠い昔、私が小学2~3年頃だろうか母が木を削って、水に漬けた半透明のトロトロしたのを「髪が綺麗になっとよ」と言いながら、お河童の髪に付けてくれた。

それが『美男蔓』だったのかも知れない。
3~4年前、近くの根来寺の境内に『美男蔓』を発見した。

あの山の中にしか生えていないと思っていたので、驚きと嬉しさはひとしおだった。
「どうぞ、心無い人に盗られません様に」と祈った。

この歩き遍路も参加人数が少なかったので、会社としては採算が合わなかったらしく途中で中止しますと言い出した。
吃驚(びっくり)である。 
「何とか徳島一国参りだけはして下さい」と談判した。
私は傍観していたが、結局徳島だけの歩き遍路と言うことになった。
1年間の体験だったが、山あり海ありそしてお接待ありのいい体験をさせていただいた。
テレビに思い出の所が映ると懐かしく思い出す。
そしてこの『美男蔓』も思い出の一つである。【H・靖子】

【写真】『美男蔓:別名=実蔓(さねかずら)』インターネットから借用しました。
いかにも美味そうに見える、この『美男蔓の実』は食べられるのか?
インターネットで調べてみても、” 食べられる ” とも ” 食べられない ” とも書いてないし、” 有害か無害か ” とも書いてない。
誰か食した人はいませんか? 味はどうでしたか?


60の手習いで社交ダンスを始めた。 
きっかけは還暦同窓会のとき数人の人たちが、楽しそうに踊っているのを見て「自分も踊れたら楽しいだろうな」と思った。 
又、昔勤めていた頃職場仲間とスナックに行った時、同僚がとても楽しく踊っていた。 

今思えばそればジルバだった。 
狭いフロアーでまるで天使のようにクルクル廻って今でもあの時の同僚のニコニコ楽しげな表情が浮かんでくる。
60の還暦同窓会が終わって余りある時間が出来た時、一念発起してサークルに入った。(公民館で週2回 月1000円) 
私は初心者だから先輩方が親切に教えてくれた。 

2年ほど経つと基本のベーシックが一通りは踊れるようになり、ダンスパーティにも何回か出掛けて行った。 
覚えたての頃が一番楽しかったなぁ~。 
それから家庭の事情とか自分の体調の不具合など色々あって充分な練習は出来なかったが、今年から一念発起して練習しようと思っている。 
ワルツとかタンゴなどのモダンは何とか踊れるが、ルンバやチャチャチャジルバ、サンバなどラテンの基本ステップがなっていない。
ステップと言うより基本ウオーク(体重移動) が出来ていないから、踊りがヘナチョコで全然格好が良くない。 
つまり「ド」が付くくらい下手である。 

今年はこの基本ステップに挑戦しようと思っている。 
過日テレビを見ていると高齢と見ただけで判る女性が、素敵なドレスを着て社交ダンスを踊っていた。  
興味深く見ていると77歳の時、ご主人を亡くされてそれから社交ダンスを習い始めたそうだ。
現在82歳の女性の社交ダンスは挑戦する気力に満ちていた。
この年齢になってそうそう上手く踊れるはずは無いが立派な踊りだった。 

其の裏ではそれなりの努力がある。
毎日家の近くの神社の石段を登ったり、元々体が柔らかいのか柔軟体操を入念にこなしている。
「凄いなぁ その気になってやれば出来るものだなぁ」
82歳の女性が此れだけの事をやれるのだから、自分も頑張れば少しはまね出来るかもしれない。
せめて背筋を伸ばしてピンと立つ事を心がけよう。

この人を見習って楽しく練習しようと元気が出てきた。
『元気を貰う』とはこういうことだと思った。
自分の健康は自分で作らなければ、誰も手伝っては呉れない。 
気持ちだけでも前向きに行こうと思っている。【H・靖子】


台所のガス台の前のタイルの壁に2ミリ程の小さな蟻が行列を作っていた。
『イエヒメアリ』らしい。らしいと言うのは2ミリほどの超小さな蟻で老眼鏡と虫眼鏡で見てもハッきり解らない。 
類似した形体で其れであろうと推察した。
『家にいる姫蟻』という意味だろうか。

別に害は無さそうだが、家の中で蟻の行列を見るのは気持ちが悪い。
辿ってみるとタイルと柱の隙間の目地から出入りしている。
行列を濡れフキンで拭き取り、柱の目地に糊を塗って塞いだ。
出入り口は塞いだから大丈夫だろう。
ところが2日と経たないうちに再び行列が.......
今度は木工用ボンドを分厚く塗って完全に塞いだつもりだった。

しかし、私のやる事はタカが知れている。悔しいが完全に姫蟻に見透かされてしまった。 

塞いだ上部から出入りして行列を作っているではないか.....タイルの目地に沿うように流し台の裏に続いている。
「ドゲンカせんといかん」.....こんな時のノジイ弁は実にしっくりする。  
蟻はマーキングして道を作るらしいので、臭いを消すためにタイルを綺麗に拭いてみたが効果は無かった。
さて、次の一手は何としよう。蟻は甘いものを好むから逆手にとって塩を塗ってみた。
ひょっとすると効果があるかもしれない。
微かな期待だったが見事に行列がパッタリ途絶えた。 

「どうだ 参ったか?」と勝利宣言したぐらいである。 

しかし、退治したと思い込んで油断したのがいけなかった。4~5日すると塩の上を歩いて別ルートを開拓していた。

姫蟻と言う名前は可憐で可愛いが中々しぶとい、塩を塗ったぐらいではめげてはいなかった。 
さてさて次の一手は何としよう。 ネットで調べると『酢』を嫌うらしい。 
フキンに酢を湿らせてタイルを拭いて見たが拭いたぐらいでは何の効き目も無かった。 
蟻を見ながら思った。
蟻も命があって人間と同じように一生懸命働いているなぁ~自分の仕事を忠実に遂行しているなぁ 

「はたらき蟻さん」と言う歌がある♪蟻さんと蟻さんがこっつんこ・・・あっち行ってチョン チョン こっちきてチョン。♪  
サボっている蟻なんて1匹もいない。情報交換や情報収集しているのだろう「あっち行ってチョン、チョン」と実に良く働いている。

いやいや感心している場合ではない。
酢で駄目なら最後の手段は『クエン酸』か。紫蘇ジュースを作ったクエン酸が残っている。 

蟻を濡れフキンでふき取った後クエン酸を水で濃く溶かして刷毛で満遍なくタイルから柱の目地まで塗ってみた。 
「フムフム此れは効いたかな?今日で3日目まだ来ていない」 
しかし、よ~く見ると1匹、又1匹とウロウロしている。
『偵察蟻』に違いない。 

まだ懲りずに活路を見出そうとしている。
「見上げた根性だ、大したものだ」と感心してしまう。虫に教えられると言うかその根性は見習いたい。 

そこで見つけ次第クエン酸のついた刷毛で絡め取る事にした。 
おかしなもので台所に立つと一番に姫蟻探しにガス台の壁を点検している。 
2~30匹いた蟻は徐々に少なくなった5日目の今日3匹見つけた。 
即クエン酸地獄に招待してやった。私は恐ろしい閻魔大王に見えているに違いない。 

その後も増えたり減ったりしているが行列は作っていない。 

根性の無い私が今回は「絶対に蟻の奴らに勝利しよう」と思っている、クエン酸を付けた刷毛を片手に蟻と私の根競べは続いている。
さてそろそろ根絶するかなと思うが油断は出来ない。勝利宣言する日もそう遠くは無いと思う。 【H・靖子】

【写真】インターネットから借用した「”イエヒメアリ”の写真はリアルすぎて気持ちが悪い.....。」という意見がありましたので差し替えました。
1枚目は投稿者の居住区和歌山県の景勝地『那智の滝』(2007.5月撮影)。
2枚目は我々の故郷・宮崎県の景勝地『高千穂峡』(2008.4月撮影)です。
写真上でクリックすると2段階で拡大します。



今年も僅かになりました。 
振り返ってみると今年ほど色々なことが重なった年も有りませんでした。
友達との悲しい別れ、弟との悲しい別れ等など.....。
古希を過ぎて生きていく事のさまざまな試練を目の当たりにした年でもありました。
「人生色んな事があるさ」なんて殊勝な心がけがあったとしても、わが身に降りかかってくると、うろたえてしまい『歳の功』なんて何処に行ったのやら....... 「嗚呼!!これが生きる事なんだ」と、やっとその意味が判ったような気がしました。 
人間いくら歳を重ねても悲しいときは悲しいものだと知りました。
そして悲しみにくれる人にはどのような慰めの言葉を掛けて上げたらいいのでしょうか......

話は変わりますが 先日テレビを見ていたら、ダライラマが言っていました。 
ダライラマ自身偉い人から聞いた話だと言っていましたが「どうしようもなく困った時はその状態を分析しなさい、そして方策を講じなさい。それでもどうしようもなく、打つ手立てが無い時はそれ以上苦しむのは止めなさい。」と、そうなんですよね。

しかし、悪い事ばかりではありませんでした。良い事、楽しい事もありました。
Nー行雄さん幹事の偶然会の旅『紀州路巡り』が、10月6日~8日まで実施されました。
参加者は、Nー行雄さんご夫妻 Uー佳夫さんご夫妻 Iー光信さん Mー祥之さん Oー和さん N-田鶴子さん F-ウメ子さん Mー弘子さん H-靖子の11名でした。
N-行雄幹事長が東奔西走してキッチリと段取りをつけてくれました。
当日は晴天に恵まれ、それはそれはいい旅の始まりでした。
新大阪駅で全員集合!! 暑過ぎるくらいのいい天気でした。
伊丹空港から貸し切りバスで野尻組の人たちがやって来ました。
いつもの事ですが顔を見るや否や「誰々ちゃん」「誰々ちゃん」と再会を喜ぶ声にテンションが上がります。
顔を合わせた途端に気持ちは学生に戻るのはどうしてでしょうね。 

『友遠方より来る 又、楽しからずや』
関西在住の私は少しでも皆さんに案内できるようにと思いましたが、何分にも勉強不足で「もっと段取りよく案内できたらよかったのに.....」と後悔しました。 でも同窓会は皆会うだけで良いんですよね。
呑んで食べて話をして3日間の旅はあっという間に過ぎてしまいました。
幹事長の挨拶もそこそこに大阪の町を走る車窓に映る景色を見ながら「左手に大阪駅、右手に見えるビルが大阪の名所「空中庭園」ビルの天辺あたりに 斜めに見えるのがエスカレーターで空中庭園に登ります。恋人たちの聖地ですよ。」
外人観光客も必ず行く所です。「あべのハルカス、地上300メートル日本一のビルですよ」等々、野尻では見られない都会の景色を右に左に見ながら首の運動よろしく旅気分を高揚させればいいと思っていたのですがあっという間に通り過ぎてしまいました。 
 
 

さぁ愈々紀州路の旅が始まります。
バスの旅はお酒が入りほろ酔い気分で大阪を後にしました。
幹事長の入念な計画によって本州最南端「潮岬」「那智の滝」「那智大社」「西国33箇所巡り1番札所青岸渡寺」。 
石畳の残る「熊野古道」そして古来より名湯と言われる「白浜温泉」。
パンダちゃんが沢山いる「アドベンチャーワールド」等、和歌山県の名所を巡り2泊3日の旅行は終わりました。

幹事長の奮闘のお陰で秋の日のひと時を心ゆくまで満喫しました。
良い思い出が出来ました。発起人になって下さった事に改めて感謝です。
そして「又逢おうね」と皆で次回の再会を約束して終わりました。
今年もあと少し、無事過ごせたことに感謝!皆様に感謝!本当に有り難うございました。
来年も更にいい年でありますように皆様のご多幸を祈ります。【H・靖子】

【写真】上2枚の写真(和歌山アドベンチャーワールド&パンダ)は、インターネットから借用しました。
下の2枚はブログ管理者が紀伊半島1周旅行で撮影(2007.05.08)したものです。



国道42号線(静岡浜松~紀伊半島をぐるりと和歌山市まで)を、和歌山市から南下すると広川町と言う小さな町があります。 
国道の脇に『濱口梧陵(はまぐちごりょう)生誕の地 稲村の火』という大きな広告看板が立てられています。

何十年か前にこの看板を目にした時、思わず「あっ!!」と思いました。 
『稲村の火』の話が思い出されたからです。
確か教科書で習ったような気がしますが定かではありません。
友達に尋ねたら知らないという事でしたので、ひょっとすると子供たちの教科書に載っていたのかも知れません。

安政元年(1854)11月5日安政南海大地震が発生しました。
大きな地震のあと津波が来ると予測した庄屋の濱口梧陵は、村人に津波が来る事を知らせなくてはと焦りました。 
早く知らせて村人を避難させねばなりません。
一刻の猶予も無い緊急事態です。 
大地震の後津波が来る事なんて露ほども知らない村人にどうして知らせよう。 

梧陵は刈り入れたばかりの稲わらに火を放ちました。
庄屋の家の方から火の手が上がるのを見た村人たちは「此れは一大事」「庄屋の家が火事になっている」と庄屋の家に向かって走りました。
村人が高台の庄屋の家にたどり着いて間もなく大津波が襲い甚大な被害が出ましが村人たちは救われました。  

11月5日が『世界津波の日』に国連で採択されました。
此れは和歌山県の『濱口梧陵の稲村の火』に由来するものであります。 【H-靖子】

【写真】濱口梧陵氏の銅像。『稲村の火の館』に建立されている。インターネットから借用しました。【ブログ管理人】

  
  
もう10月だと言うのに夏の話で恐縮です。 
今年の夏は胡瓜が大豊作でした。
トゲトゲのある瑞々しい胡瓜は本当に美味しくて塩をつけてポリポリ食べたり、ポテトサラダや酢の物など夏には欠かせない食材です。 
でも多すぎるのも良し悪しで、近所に配るのも「いつも同じ物ばかりで有がた迷惑では?」と余計な気を遣います。 

実がなりだすと容赦なく毎日毎日大量に収穫できて、本当に困りますがこれが贅沢な悩みであることは判っています。
一日採るのを忘れると2倍ぐらいに大きくなって種が入り、皮も少し固くなって自家消費しなければなりません。 
2人所帯でオマケに老夫婦ときているからそんなに食べれないのです。
「Qチャン漬け」も作りましたが毎日は食べられないものです。

ある日、調理し易いようにスライスして塩を少々振って保存袋に入れ冷蔵庫に入れておきました。
使いたい時にいつでも使えて保存もきいて重宝しました、がそれでも1袋が2袋に2袋が3袋にだんだん増えていきます。
あ~何とかしなければ......そこで閃きました「Qちゃん漬けも最後に煮て味付けするから胡瓜を固く絞って味をつけてみよう」と、 私の得意は手抜き料理です。 

砂糖、醤油、味醂、唐辛子などを適当に入れてグツグツ煮詰めてみました。
汁気がなくなるまで煮詰めると照りも出て佃煮が出来ました。
味は?「ウウ~~ン』『旨い!!』と絶句(少々オーバー).....ホントに美味しいときは言葉が出ないものです。
なんと美味し~い胡瓜のコリコリした食感と程よい甘辛の味が何とも言えない。
ご飯に凄く合います。これだけで「ご飯お代わり」ができます。
そしてお茶漬けにチョット、サラダにチョット入れたりレパートリーは広がりそうです。
佃煮にすると量がかなり減るので大量消費には持って来いでした。
出来上がりは小袋に入れて冷凍しました。
お陰で曲がった胡瓜も皮が固くなった胡瓜も皮を剥いてすべて無駄にすることなく使い切りました。
今までこのような発想が無かったのが悔やまれる程でした。
ところが考える事は皆同じと見えて、後日ネットで検索してみたら同じレシピが載っていました。 

プラムの時もそうでした。
近所の奥さんから「庭の木になったから食べてね」とレジ袋一杯戴きましたが、余りおいしくありません。
捨てる訳にもいかず手にとって「捨てようか」「いや待て」とゴミ箱の上を行ったり来たり。
プラムの身になってみれば「あっ!捨てられる」とヒヤヒヤしたに違いありません。
皮ごと鍋で煮てみると皮が煮溶けて種だけが残りました。
種を取り出して真っ赤になったシャバシャバの汁に砂糖を入れてジュースに、それを煮詰めてジャムを作りました。 
甘酸っぱい美味しいジャムが出来ました。
「ヤッター」と思ったのですが、これもネットに出ていました。
考える事は皆同じだな~と思うことでした。 【H・靖子】

【写真】 『きゅうりの佃煮』は、インターネットから借用しました。(ブログ管理者)

 

梅雨には紫陽花がよく似合う。 
我が家には沢山の鉢植え紫陽花があるが、今年の花のつきは極端に少ない。
花芽の無いのもある、昨年までは沢山咲いて優等生だった。
自慢出来る程の紫陽花だから来年もキット咲いてくれるだろう。
小さな庭を一杯に埋め尽くして.....なんて期待は大きかった。
それなのに今年はどうした訳か数えるくらいの花しか咲いていない。
4~5年も前に知り合いの人から、額紫陽花を戴いたのがきっかけで挿し芽をするようになった。 
花が終わった枝を挿しておくといとも簡単に根が出てきた。
挿し芽初体験で「私にも出来た!!」という喜びは大きかった。  

何をしても完成した試しがない駄目な私にとっては大きな感動だった。

それからというもの面白くなって毎年挿し芽をしたが、3~4年もすると置き場所も無くなったので現状維持となった。
2年目になると蕾もつきだす。
春になって葉の間に小さな粟粒のような蕾が顔を覗かせると、まるで小学校の「植物の観察日記」みたいに毎日蕾の大きさや数を丹念に見る。 
次第に赤とか青とか見分けができるようになると、毎日の楽しみが大きく膨らんだ。
赤、白、紫、青等どれもが愛しい花である。中でも私は青い色が好きだ。
園芸売り場で「青い紫陽花の肥料」と言うのを見つけた。
勿論即買した。成程今年はいい色に仕上がっている。

真っ青な紫陽花は他に比べると品がいい。
品格があると思うのは私だけかなぁ~。 

今年は我が家に紫陽花の女王がふらりとやって来た。
紫陽花の女王なんて誰がつけた訳でもない。
私が名づけた「我が家の女王」である。
庭の片隅にひっそりと、それもヒョロヒョロと頼りなさそうに咲いていた。
今年の新顔である。 花の一つは直径2センチ程で色は薄紫、花びらが「つまみ細工」のように少し内側に丸くなっている。
よく見ると濃淡の、グラデーションがなんとも虹のように美しい。
此の花が集まって一枝の紫陽花だからその美しさに私はノックアウトされた。

その美しさに見惚れてしまった。完全な一目惚れである。
「紫陽花の女王」と私は思う。
女王の名に恥じない素晴らしさである。
今年の一押しはこの花に決定である。
何処からどうやって我が家の鉢に収まったのか判らない。
恐らく人から戴いた挿し芽だろうか、あるいは旅行に行ったとき、お寺の片隅に咲いていた枝を失敬してきた中の一つかもしれない。

ルーツはわからないが縁あって我が家の花になったのだから、今年は此れを挿してみようと思っている。
鬱陶しい梅雨も花を見ているだけで癒される。
花言葉は「元気な女性」「辛抱強い愛情」「一家団欒」「家族の結びつき」 「移り気」「冷淡」「無情」「高慢」などなど沢山あるようだ。
どの花言葉がどの花なのか想像するのも楽しい。
さしづめ赤い花は「元気な女性」と言うところだろうか。

因みに外国では「オタクサ」と呼ばれているらしい。
江戸時代ドイツ人医師シーボルトが帰国する時持ち帰ったのが額紫陽花で、その時日本で愛した女性の名前が「お滝」さんと言ったそうな。
何時までも忘れない日本のお滝さんを偲んで「オタクサ」と命名したと.....。 

独身時代に聞いた上司の話を思いだした。
教えてくれたあの方は、まだお元気だろうか。青春の一齣を思い出した。
庭の紫陽花が雨に濡れている。
私の大好きな紫陽花の季節も間もなく終わる。

やがて灼熱の太陽が照りつける 夏がやってくる。 
暑さに負けないで頑張ろうと思う。
せめてこの梅雨のひと時を、紫陽花を愛でながら幸せな気分に浸ろう。【H・靖子】 

【写真】 夜明け前の雨に濡れた紫陽花の写真です。写真上でクリックすると拡大します。【ブログ管理者】



 
緊急速報です(冗談です)。
NHK朝の連続ドラマ『あさが来た』をご覧になっていますか? 
面白いですね~。今週は『あさ』が東京に行くそうです。 

その場面の撮影が和歌山のマリーナシティで行われました。
ここは何年か前にリゾート博覧会が行われた跡地で、当時ヨーロッパの石作りの建築をそのまま再現しました。 

まるで外国に行ったような雰囲気があります。 
それが東京の風景の一部として使われているみたいです。  

和歌山と言いますと『高野山、熊野古道、白浜温泉』など自然の風景しか思い浮かばないと思いますが、こんなしゃれた場所もあることを垣間見て下さい。【H・靖子】 

【写真】和歌山マリーナシティ.......インターネットから借用しました。


<<ギャハ~(笑)又老いてしまったぁ~~ハハハハ>>

お気に入りのパンツ(スラックス)が1本ある。 ひと昔も前の話である。
デパートの売り場で「デザインがスッキリしていますよ」「新商品です」と(今で言う細見せパンツの走りだった)パンツを凄く勧められた。

それまでゆとりのあるパンツしか履かなかったので、尻込みする私に「良くお似合いですよ」 「細く見えますよ」と熱心に勧めてくれた。

私は押しに弱いところがある。
話しているうちに何となくその気になって来た。

相手はプロだから、その気にさせるのは造作の無い事かもしれない。
私にしては少々高い買い物だったが、センターにラインが入って細身に見えるのが気に入った。
一枚ぐらいこんなのもいいだろうと思って「清水の舞台から飛び降りる」気持ちでそれを買った。

10年前と言えば還暦の頃である。まだ若かった。
体も良く動いたし、疲れも知らなかった。

何人かの人に「いいね」と言われるとまんざらでもなかった。
超お気に入りのパンツは外出以外は絶対履かなかったし、帰宅するとすぐハンガーに吊るして膝が丸くならないように、皺ができないように気をつけた。
楽しい外出時しか履かなかったから、気分は高揚し随分重宝した。
ところが最近裾を引くぐらい長くなったと気になりだした。

「十年もはいたから生地が伸びたのかもしれない」と思いつつ、 ウエストを高くあげて履いた。
 

最近になって、衝撃的な事実が明らかになった。
それは生地が伸びた訳ではなかった。

毎年健康診断に行っているが、今年の看護師さんはハッキリと身長体重を告げてくれた。
体重はさておいて「身長 153cmですね」....「エエ~ッ?! 153cm?本当ですか?」「そうですね.....」にべも無く断言された。 
私155.5cmだったんだけどなぁ~。我が家の体重計の設定もそうなっている。

『2.5cmも低くなったなんて考えられない.....。』
背筋もピンと伸ばして測ったしそんな筈はない。

納得がいかないモヤモヤした気分で帰宅した。 そしてハッ!!と思い当たった。
「身長が縮んだから?」「信じたくないけどそれで辻褄が合う」
かつて友人が「私身長が縮んだのよ」と、何回も言っていた「そんなバカな」と思って聞き流していたがこの事だったのだ。
私も縮んだ?? 丁度2.5センチ位裾が伸びている。
縮んだ分裾が長くなった。
嗚呼何と言う事か。老いの領域に又一歩入ってしまった。

「仕方がネむんね~~」故郷の言葉がこんな時にはぴったりくる。
「仕方がねがねぇ」 ま、そう言う事のあった今年もあと10日余り、来年もいいことが沢山ありますように。
穏やかに老いて行きたいものです。【H・靖子】

【写真】文中に出てくる有名な『清水寺の舞台』......サブタイトルにも使いました。インターネットから借用しました。

 
  
<<映画 海難1890>>見てくださ~い。

皆さん如何お過ごしでしょうか?
古希の同窓会では、ハチャメチャにはしゃいで楽しいひと時を過ごしました。
あの時を思い出しながら楽しく過ごしています。

さて、皆さん最近映画を見に行きましたか? 私は何年も行っていません。
『おくりびと』を見て以来ですから、相当見てないことになります。
ところで今回は是非、皆さんにも見ていただきたい映画があります。

『海難1890』...... これは1890年トルコの軍艦『エルツールル号』が、和歌山県串本大島の海岸に座礁し遭難した実話を描いたものです。
その時、串本の住民は親身になって遭難者を助けました。
それから約100年後の1985年、イランイラク戦争のとき孤立した日本人を助けてくれたのがトルコ航空機でした。
この時「なぜ?トルコが日本人を助けてくれたのだろう」という疑問がありました。
トルコ政府はその理由を「100年前わが国の軍艦『エルツールル号』が遭難した時、日本の人たちは親身になって助けてくれました。その恩返しです。」 と......。
100年前の恩返しをしてくれたのでした。

九死に一生を得て救出された人々の口から、トルコに対する感謝の気持ちが涙ながらに報じられ、次第に皆さんに知られるようになりました。 
串本町長と映画監督の田中光敏氏は大学の同級生だそうです。
最近、遭難当時の様子を記したカルテが多数見つかった事から、何とかしてこの話を世界の人に知って欲しいと思った町長が、日本とトルコの友情の話を便箋何枚にも書いて監督に送ったそうです。
「この素晴らしい友情の話を是非映画化してくれ」と。

その時の条件が「金はないが映画を作ってくれ」と言うものだったそうです。
串本ではトルコとの友好がズット続いています。
そして友好125年を記念して、トルコと日本の合作『海難1890』が完成しました。
心温まる100年前の恩返しの話です。
トルコは親日家が多いと聞きますが、この話は学校で教えているそうです。
和歌山に住む者にとっては誇りに思う話です。否日本の誇りとなる話です。
感動の『海難1890』の映画を、是非お近くの映画館でご覧ください。【Hー靖子】

【写真】左:海難1890のポスター 右:和歌山県串本町の名所・橋杭岩(写真の奥に見えるのが文中に出ている大島です)。
2枚の写真はいづれもインターネットから借用しました。
写真上でシングル・クリックを繰り返すと更に拡大&縮小します。【K-正人】



まだまだ書きたい事は一杯あるけれど、7月も今日で終わりだからも少し、書いてお終いにしよう。
名勝『浄土ヶ浜』では遊覧船に乗った。
震災前2隻の遊覧船があった。
『3・11』のその日、1隻はドッグに入っていて津波に呑まれたそうだ。
もう一隻は丁度お客さんを降ろした直後だった。
地震の後、津波が来る事を予測した船長が沖に逃れて船は難を逃れた。
それにしても10メートル以上の波をよくぞ乗り越えて無事だったものだ。 
その津波を乗り切った強運の遊覧船が今活躍している。
可愛い船のガイドさん。
若くてピチピチ.......。
棒読みの案内がなんとも癒される。
運の強い遊覧船にパワーを貰った。

『この世の浄土』と言われる浄土ヶ浜は期待通りの絶景だった。
ただ白い砂浜と思っていた所は、石ころばかりの白い浜だった。
実際に見ないと分からない物である。
国道45号線を走ると
『過去の津波浸水区間ここまで』
『過去の津波浸水区間これから』
と書かれた標識が沢山出てくる。
海も見えないこんな所まで津波が押し寄せてきたのか、と信じられない事実があった。 
震災前の状況を知らない私達は、ただの風景と思っても 「ここは随分賑わっていた所でした」と言われる辺りなどは、かさ上げ工事の真っ最中であったり夏の草が茂っていたりした。
ガイドさんの話を聞く「自分が今何処を走っているのか判らないときがある」と........それ程景色が変わっているのだ。
良く見ると広々した風景の中に家の土台だけが残されている。 
テレビで何回も目にした津波の後の光景が目の前にある。
「嗚呼~何ということ・・・」それ以上の言葉は思いつかない。

なんだか暗い話ばかりになってしまったがこんな事もあった。
最初に書いたがツアーの申し込みが1番だったので、バスの座席は一番前の特等席だった良いことが他にもあった。

初日は気仙沼の某ホテルだった。
最近のツアーはバスの中で部屋番号が言い渡されて、宿に着くと各自自分の部屋に行くようになっている。ビックリした。 
他に3~4人のグループもあるのに、和洋室の特別室があてがわれていた。
テンションが上がったのは言うまでもない。
2面に窓が大きくとられている。
目の前が気仙沼港で眺めは抜群である。
1番に申し込んだ大きなご褒美だった。
そして夕食はグループごとにテーブルがセッテングされており単独の宿泊気分である。

夏の味覚『ホヤ』も食べた。
味は~~微妙~~。
観光の途中バスが停まる度にみんなの荷物が増えていく。
少しでも復興に繋がったのかもしれない。

2泊3日の旅行は記憶に残る旅となった。
振り返って「行ってよかったなぁ」とつくずく思う。
膝の痛みを心配してシップ薬を持参したが、一枚貼っただけで帰宅した時にはスッカリ忘れていた。
気分を変えることがこんなに体調を良くするとは。 旅の疲れも全くない。
我ながら呆れるくらいの体力に驚いている。

しかし私も70歳。母娘の旅はこれが最後になるかもしれない.....そんな気がした。
娘には「60代最後の旅になったよ ありがとう」と言った。
何をするにも娘に助けられ安心の旅でもあった。
楽しかったいい旅を有り難う。娘に感謝である。 
明日から8月。暑い暑い夏を気合で乗り切ろうと思う。終わり。 【H・靖子】



【十八成浜】 これ何と読みますか? 
1回で読めた人にはご褒美を差し上げましょう。
『じゅうはちなる浜?』 『とはちなり浜?』 .......
あれあれ、誰も読めませんね~~。 残念です。
それでは正解を申し上げましょう。
これは『くぐなりはま』と読みます。

十八成浜= ” くぐなりはま ” を解説しましょう。
ここは昔から啼き砂で知られる珍しい浜でした。
砂浜を歩くと、キュ キュ となります。
キュとキュ=九と九 九と九は十八になります。
キュキュなる浜=《九九鳴る浜》=九が二つで十八ですね。
な~~る程! 私もやっと納得しました。
ここは東北『くく』ではなく『くぐ』になったのでしょう。
頓智のきいた地名を誰が付けたのでしょうね。
それほど愛された砂浜も、地盤沈下によってなくなったそうです。

【BRT】 これは何か判りますか?
『バス高速輸送システム』と言い、気仙沼線・大船渡線で運行されている。
大震災の津波は鉄道もズタズタに破壊した。 
市民の足だった鉄道は機能をなくし再建のめども立たない。
JRは鉄道復旧の検討と並行して、できるだけスピーディに安全で便利な高速輸送サービスを提供できるよう、バスによる仮復旧を進めている。
時折すれ違うバスは赤いボディで明るい楽しいバスである。

これがBRT(バス・ラピッド・トランジット(Bus Rapid Transit)の略)と呼ばれ、住民や観光客の足になっている。
一般道路と線路を埋めて作られたバス専用道路を走る。
駅舎がバス停留所になり線路がバス専用道路になる、一寸珍しい光景である。
復旧が遅れている線路には夏草が生え、その先は線路も無くなっている。
そして仮設住宅が幾棟も建てられていた。

「被災地の 線路悲しや 草茂る」
そして東北の人たちはこう呼びかけています。
『東北へ被災地へ出かけていただくこと、それも復興支援。力強く復興へと歩みを進める東北地方へ、熱いエールと笑顔を届けませんか。きっと、心に残る旅になります』
全くその通りだと思った。が東北はヤッパリ遠いなぁ~~ 頑張って下さい。【H・靖子】



このブログを書きながら『普代村の広報誌 平成23年3月号』を読んでいる。
『普代村』と言う地名も知らなかった。
普代水門の横を通る時、ガイドさんが説明してくれたが1回聞いた位では深くは理解できない。
まして、この頭である覚えろと言う方が間違っている。
必死で覚えたとしても、あっちを向いてコッチを見たらもう忘れているので、『そんな事なら初めから覚える必要もない』と高をくくっているから、思考力低下も頷けると変に感心している。

ところで ツアーの中に普代村駅から久慈市までの区間『三陸鉄道北リアス線』乗車が組み込まれていた。
1昨年のNHK朝の連続ドラマ『あまちゃん』に登場した鉄道である。
小さな駅舎の掲示板に震災の広報パネルがあった。 
読んでいる時間も無いのでパチリ!写真に撮り帰宅して拡大してみた。 
そこには想像を超える奇跡の話が記されていた。 

私が心打たれた記事は『普代広報誌23年3月号』に載っている。 
『この暑いのに大変ですが宜しかったら開いて読んでみて下さい。』 
掻い摘んで話すと「ここ東北地方は過去2回ほど大きな津波災害があり、その教訓を生かして作られたのが普代水門である。」とある。

明治の大津波、昭和8年の大津波を教訓に、当時の村長が『2度あることは3度ある。絶対に住民を守らなければいけない』という、強い信念のもとに過去の高波を参考に高さ15.5メートル、総工費35億6千万円、と言う巨費を投じ建設された。
「その様な大きな水門を作らなくとも....」
「何であんな大きなものを....」と色々な反対を押し切り、近隣の人たちに笑われながらも昭和59年(12年をかけて)完成した。  

その水門が今回は住民の生命財産を救ったのである。
津波による家屋損壊0 死者0 行方不明1人(これは漁港を見に行った為だという、漁港は壊滅した。)
この水門がなければ大きな被害が出ていたことは必定である。
この村長の「住民を守る」「住民の為に」という強い信念は政治家として当たり前の事かもしれない。

信念を貫き通した村長さんの『政治家魂』に敬服である。 
三陸海岸鉄道も素晴らしかった。
梅雨の真っ最中と言うのに、この日は晴れていて青い海が素晴らしく美しかった。 
景色のいい処では列車を停めてくれるサービスもある。
久慈までの列車の旅を楽しんだ。【H・靖子】

【写真】投稿者Hー靖子さんが紹介している『普代広報誌23年3月号』をインターネットで検索してヒットしたものです。
その広報誌に載っていた写真を借用しました。【ブログ管理者】 
 
 
7万本もあった松原の1本だけが残った『高田の一本松』は復興のシンボルとして遠くに見ることが出来た。
ここでは約1時間余り、60才前後の男性ボランティアガイドさんが案内してくれた。
その中で震災当時の自分の様子も話してくれた。 
その時、私は実家にいました。
物凄い大きな地震の後ボ~~ッとしていまして、 突然隣の家の人に「津波が来るぞ~逃げろ~~」と言われ、高台に上って難を逃れました。
その時の様子を振り返ってみるのですが、音を全然覚えていないんですねぇ。
 
家がぶつかる音。津波が押し寄せてくる音。人々の声など本当は音があった筈なんですが何にも覚えていない。
そして家々が呑み込まれていく様子も見ているのですが、全く色がついていないんです。
まるでモノクロの無声映画を見ているような感じです。
おかしいでしょう? 時折笑顔を見せながら「しょうがないなぁ」と言うように淡々と話しをされる。

笑顔の奥にはきっと大変な苦労と震災による心の傷があるのだろうと思うと、色々聞いてみたい質問もはばかられた。
話は続く.......
「波が引いて我が家に帰りました。家はスッカリ跡形も無く流されていました。」
「僕はおかしいですね その時何を思ったかといいますと『あ~後片付けしなくて済んだ』と思っていました。」
全く僕はおかしいですねぇ~と苦笑された。
聞いている皆も小さく笑った。

人間は極限のパニックになるとこういう事にもなるのだと思った。

私の実家は醤油製造をしていたのですが、津波で工場も何もかも全部流されました。 
再起不能と思いました。しかし皆様の暖かいご支援のお陰で場所を変えて再開することが出来ました。
「本当に有り難うございました。」
「本当に助けられました。」
「有り難うございました。」と心からのお礼を言われると大した援助もしなかった自分が恥ずかしかった。

『道の駅高田松原』はそのまま残されている。
建物の壁を良く見ると三角の筋がある。(右写真) 
これは玄関の有った場所で、完全に建物から剥ぎ取られた跡である。
建物の中を覗く、松の木がすっぽり入って横倒しになっていた。
4年も経って松の木は枯れていたが、建物の中まで入り込んだ凄まじい津波の恐ろしさを見せ付けていた。
ここは15.1メートルの津波が押し寄せたとあった。(左写真のセルフ・ガソリンスタンドの看板が総て水没した....写真は拡大出来ます)
この辺りもかさ上げ工事の真っ最中で、大きなベルトコンベアーが2本も3本も空中を渡り、まるで工場を見る感じあった。

山からトラックで土を運び出すと、10年位はかかると言われる仕事を、このベルトコンベアーなら3年余りで出来るらしい。
山からベルトコンベアーで土を運び出す工事は、関西空港建設の時も使われた。
山から直接運び出すので色んな面で効率がいいのだろう。
このかさ上げ工事も後1年ぐらいで終わるらしい。
この工場みたいなベルトコンベアーも撤去され又新しい景色になる。
復興が進むにつれて移り変わる景色が新しい時代を作るのだと思った。【H・靖子】

  
     
震災後の無残なおびただしい瓦礫の山は車窓から見る限り皆無であった。 
着実に復興は進んでいるようである。
かさ上げ工事は随所で見られ遠くから見ると、さほどの高さは感じないがバスが傍を通ると見あげるほどの高さに驚いた。

「これ程大量の土が必要なんだ」気が遠くなるような大工事である。
「人間はやる事はやるんだなぁ~。人の力は凄いなぁ~!!」と思った。
そんなに凄いと思っている一方で、今もし、津波が来たらこの土は瞬く間に流されるだろうと悪夢が蘇る。

被災者の復興住宅も想像以上に沢山あった。
人の姿は見えないが不自由な生活をしている事だろう。
それと同時に車窓から見える真新しい住宅は、震災後に建てられた物である。
殆どが新しいということは、津波がいかに沢山の家々を破壊したかと言う事でもある。
そして新しい家は懸命に生きる人々の証のようでもあった。

車窓からは震災遺構としての建物がいくつか見ることが出来た。 
5階建ての4階まで破壊されたものや、4階建ての3階まで破壊されたものなど、見てるだけであの時の映像がよぎってしまう。
 


皆が感銘を受けた『南三陸町3階建ての防災センター』のすぐ横をバスは走った。

自分の身を省みず最後の最後まで懸命に避難を呼びかけたあの声が耳に残っている。 
ガイドさんの説明が無ければ知らずに通り過ぎたところであった。 
此方も周囲はかさ上げ工事の最中で一瞬しか見ることが出来なかった。
この建物の存続が気になっていた。

「震災を思い出すから撤去して欲しい」という住民と「残して震災を後世に伝えるべき」と言う意見が出て、一時は撤去と言う事になったらしいが、ガイドさんの話によると「これから20年県が面倒見ましょう。20年経ってその時又皆で考えましょう」と言うことで落ち着いたらしい。

あの避難を呼びかけた女子職員は3日後に発見されたそうだ。 

彼から貰ったミサンガが足首に付けられていて、それが決め手となったとか...........
亡くなられた人々のご冥福を祈らずにはいられない。【H・靖子】



未曾有の『東日本大震災』から4年が過ぎ、その後の復興の様子もテレビで見ることが少なくなった。 
『大震災の被災地』を一度は見ておきたいと思いながら、当初は『物見遊山』と思われそうでためらわれた。 
その後、少しずつ落ち着きを見せ始めると「来て頂く事が復興支援に繋がる」と言われるようになり、ボランテアガイドのついたツアーも始まった。 
早速、昨年ツアーを申し込んだが、参加者不足で不催行になった。
「せめて少しばかりの義捐金でも・・・」と近くの郵便局に赴き義捐金の申し出をした。
ところが振込用紙が中々見つからない様子で暫く待たされた。
「災害から3年も経つと義捐金に協力する人もいなくなったのかもしれないなぁ」と震災の記憶が薄れていく寂しさを感じた。

今回は39名の参加者があり、催行決定で念願の三陸海岸2泊3日の旅をすることが出来た。
飛行機は仙台空港に到着した。
外に出ると建物の高いところに水没箇所までの印があった。
ちなみに、仙台空港は3.02mまで水没したようだ。(下写真:クリックすると拡大します)
「あんなに高い所まで津波が押し寄せて来たのか」と、想像も出来ない程の高さに、改めて被害の甚大さを思い知らされる。 
飛行機が流された仙台空港は、アメリカの救助隊がいち早く復興してくれて短期間で運行再開となった。
  
    
  

仙台と言えば『S-メイ子』ちゃんの住んでいる街である。
以前に逢ったとき「地震の時の恐怖は大変だった」と話していた。
パニックになってその後も少しの揺れにも脅えていると話していたが元気にしてるだろうか? 
慌しいツアーの日程で電話する事もできず空港を後にした。

空港を出ると、広々とした緑の絨毯を敷き詰めたような水田が広がり、あの時の災害は何処にも感じられない。 
海水に呑まれた田んぼの塩分を抜く作業(除塩)が進み、2年ほど前から少しづつ稲を植えられるまでになったという。
バスは高い堤防を兼ねた国道を走る。とても見晴らしがいい。

私はツアーの申し込みが1番だったそうで座席は1番前である。(但し2日目、3日目は後ろの座席になる。)
この高い堤防が津波を遮ったと思った。
右側は海、左側は水田が広がり遠くに民家が固まって見える。
ガイドさんの話によると、従来の生活道路が国道(堤防)の下を何本もトンネルになって貫いて、津波がそこから押し寄せて堤防の内側も相当の被害が出たそうだ。
これから廻る三陸海岸は津波を語らずしては回れない。【H・靖子】

   

何の風の吹き回しか、急に『ババロア』を作りたくなった。 
美味しいけど少々面倒と言う気持ちがあって、何年も、否何十年も遠ざかっていた。 
口当たりの優しさと、とろけるような食感は家族の好物だったが、子育てに追われ時間も無くとっくに記憶の中から忘れ去られていた。
何十年も作っていないのでレシピはネットで探した。

あった、あった.....。
ゼラチンをふやかして、生クリームを泡立てて牛乳に砂糖を入れて火にかける。絶対に沸騰させてはならない。
ゼラチンを投入して滑らかになったら、卵黄を溶きいれて生クリームを入れる。
氷水をボールに入れて鍋の底を冷やしながら、とろみが出てきたら型に流し込み3時間ほど冷蔵庫で冷やすと出来上がる。

何十年も前、子供達はヤンチャな小学生だった。
兄弟喧嘩もしていたが仲が良かった。
私も若かったなぁ~。毎日をがむしゃらに過ごしていたように思う。
色んな事を思い出しながら作った。

その子供たちも今や四十路の真っ只中で一生懸命に働いている。
孫たちが今、その頃の子供たちの年齢である。
『ババロア』は私に昔を思い出させてくれた。
型に流し込んで冷蔵庫に入れた。あと3時間で出来るはずである。
美味しく出来ていたらいいのだが......

今年の苺狩りも今日で全部摘んで終わった。
都合で来られなかった孫たちの為にジャムを作った。
そのうち来てくれるだろう。その時渡してあげようと思っている。

そうだ!今日取れた最後の苺はミキサーで液状にして冷凍しておこう。
そして孫が来たときこれで『苺ババロア』を作ってあげよう。
果たして喜んでくれるだろうか。
否そんな心配は要らない「おばあちゃん 美味しいね」と言ってくれる筈である。【H・靖子】

【写真】インターネット「ババロアの作り方・レシピ」から借用しました。

       
【キーワードその2 『瓢箪』の出番はふとした思い付きだった。】

3~4年前日除けに植えていた瓢箪が実り、中の実を取り除いた状態で袋に入れて物置に吊り下げてあった。
いずれ加工するつもりだったようだ。
何気なく手に取ってみた。かなり固い。そして超軽い。
小振りの瓢箪はくびれている所が持ちやすく腕に押当ててみた。
適度に『圧』がかかる。
服の上からでも滑らかに滑って気持ちがいいではないか。

今更、加工する気配もないので、一つ失敬して痛みの残る足を擦ってみた。瓢箪の丸みが膝の裏側、足の裏、くるぶし等窪んだ所も確実にツボが押さえられる。
押してみて気持ちいい処を満遍なく押したり擦ったりした。
これが功を奏したのか薄皮を剥くように改善してきた。
痛い所が『ツボ』だといわれている。
次第にツボの痛みも無くなった。
それに比例して痛みも消えたのだった。
発症して5ヶ月過ぎた頃階段の上り下りがやや楽になった。
一進一退を繰り返しながら良くなって行くのを実感した。

そして遂に手すりが無くても階段の上り下りが出来るまでに快復した。
「うわぁ~!!階段を昇れる!」
「うわぁ~!!階段を下りれる!」
その時の嬉しさは大袈裟に言えば感動的だった。
若い頃は治るのが当たり前と思っていたから、治癒した時の感動なんて覚えていない。
この喜びは年齢が言わせた感動だったのかもしれない。
 
先日公園に行った。
咲き乱れる花を眺めながら、春の風が心地よく通り抜ける。
段々畑の花壇を見て廻った。
歩ける事の幸せをつくづく噛み締めている。
まだ正座は出来ないが日常生活にはなんら問題ない。
これからは絶対に無理はしないと決めた。
否程々の無理は筋力をつけるのに良いかも知れない。
 
後何年生きるだろう.......。
人にはそれぞれ『定命』(じょうみょう)『定まった命』と言うのがあるらしい。
私の定命は何歳か判らないが、最期まで自力で歩きたいものである。 
  
【*最後に、もう一つの健康法をお知らせしよう。】
すでにご存知の方もいると思うが『ゴルフボール健康法』と言うもので、ゴルフボールを踏んでツボをゴロゴロ指圧する。
足の裏には体のあらゆるツボが凝縮されていると言うから、痛いところが体の悪いところだ。
痛い所が沢山ある人は要注意ですよ~。気長にゴロゴロしてください。
それと私がいつも試しているのは、肩甲骨の凝りである。
気分が悪くなるくらい凝るときがある。 

ゴルフボールを肩甲骨の中に食い込むように置いて上下にゴリゴリする。これも仰向けに寝て膝を立てるとやり易い「痛くて気持ちいい~~」良く効きます。
体の悪いところに優しく手を当ててみる。
『手当て』成程昔の人は良い漢字を作ったものだ。
これからは『手当て』をしながら健やかな毎日を過ごしたいものである。【H・靖子】
  
  
【キーワードは『テニスボール』と『瓢箪』だった。】

その(1)『テニスボール』 昨年の10月中旬 
足が痛くなって3回のマッサージを受け、3月初めに『ガタが来た』とブログに投稿したあの頃が一番厳しい時期だった。
玄関の上り下りが大変だったし、寝起きもこれまた大変で布団の上げ下ろしも出来なかった。
動く度に痛みが走り動きは緩慢になり「歳を取る」と言う悲哀をひしひしと感じたものである。
その様子を家人に悟られるのが嫌で、さりげなく振舞っていたが「足が痛いのか?」といわれ「ウウ~~ン」と頭を横に振った。

何とかしなければと、もがいていたような気がする。
毎日が痛みとにらめっこみたいなもので少しでも良くなると嬉しかった。
その後は我流ストレッチ治療に挑戦したのだった。
その頃、毎日風呂上りに足の痛いところに湿布薬を貼りまくるのが日課になっていた。

そんなある日テレビで「テニスボール2個でストレッチが出来る」ということを知る。
早速物置から使わなくなったテニスボールを2個取り出しテレビの真似をする。
仰向けに寝て膝を立てお尻の下にボールを置く「痛くて気持ちいい場所」にボールを当てがいゴロゴロする。
回数は気の済むまで。オマケに腰にも当ててみた。
痛いけど気持ちが良い、なんだか効き目があるような予感がした。

一日2~3回続けると2日目には湿布を貼るのを忘れていた。 
しかし坐骨神経痛は一朝一夕に治るものではない、足のツッパリ感、棒のような重たい感じ、それに時々引きつる事もあったが貼り薬は卒業した。
フットマッサージ機でふくらはぎと足のマッサージも続けていたが、テニスボールを始めた頃からフットマッサージも忘れることが多くなった。
日を追うごとに痛みが軽くなった。 
毎日の『テニスボールごろごろ』が楽しみになってきた。
しかし、あと一歩と言うところで足踏み状態、膝の辺りが弱弱しく頼りない感じがぬぐえない。
治りそうで中々治らなかった、最後の一皮が剥けたらスッキリするのにと思った。
ところが思いもかけない物がその一皮を剥いてくれた。【H・靖子】

 
ズット昔の話だが、ある旅先で『手造りジャム』の幟(のぼり)に誘われて、つい手を出してしまった甘酸っぱい思い出がある。
ここは苺の名産地と言うので市価よりは安いだろうから「お土産にしよう」と安易に値段も見ないで籠に入れた。
小さな瓶に苺が丸ごと入っている「この辺りのジャムは丸ごとなんだ」と、珍しいジャムに気分良くレジに並んだ。ところが値段を聞いて余りの高さにビックリした。

金額は忘れたが、かなり高かった事だけは覚えている。
今更「高いので要りません」ともバツが悪くて言えず、渋々財布の紐を解いたのだった。
それ以来私の中では『丸ごと苺のジャムは高価なものだ』という観念が生まれてしまった。
小さな瓶に『手造り』の文字が誇示しているようで少し憎らしく思ったものである。

近年いつだったかスーパーの棚に並んでいるのを見た。
それほど高くは無かったが私は買わない。
あの時のトラウマがいまだに尾を引いていると思うと可笑しかった。
年を取るとジャムの消費も極端に少なくなってきた。
家庭菜園に植えている苺に花が咲きだした。まだ本格的な花の数ではないがゴールデンウイークの終わる頃、真っ赤に色づく筈である。

可愛い孫たちの為に植えているので『イチゴ狩り』は毎年のイベントになっている。
四人の孫たちは四月から上が高校2年生、下が6歳の年長さんである。
上の孫が幼稚園の頃からの苺狩りだから、かれこれ10年ぐらいになる。 夫々ボール一杯の苺を採って持って帰える。
「こんな大きなのトッタァ~」
「採ったド~~」等と言いながら、葉っぱを掻き分けて赤い大きな苺を採っては、孫どうし見せあいながら嬉しそうにはしゃいでいる。
そんな様子を見ると此方まで楽しくなってくる。
勿論写真に撮り、動画に納めているので、後になって見るのもいいものである。「後何年続くのかな。」と思う。

孫たちの帰った後は寂しくなるが、苺だけは私を慰めるように再び収穫出来る程実をつけてくれる。 私はそれでジャムを作る。
ジャムを作る過程で出てくるエキスがジュースになる。これがなんとも美味しい。
苺の香りと甘酸っぱい原液のジュースを稀釈して氷を浮かべて呑む、新鮮なればこその醍醐味である。
ジャムにするには更にトロトロにとろけてくるまで煮て潰す、そして汁気が無くなるまで煮詰めると出来上がりである。
くどいようだが丸ごとの苺ジャムは作らない。

市販のジャムは「胃がもたれる」と言って食べないが自家製は大丈夫だ。 
春は苺ジャム、初夏はマーマレード、冬はりんごジャムと、我が家の砂糖消費量はかなりかも知れない。

さてジャムの話を書いている間に桜が満開になったと報じている。
今年の開花は早いように思う。 
さて明日はサークルのお花見である。桜の下で食べて踊って楽しんでこようかなぁ~~。 【H・靖子】

    
痛い右足がようやく治りかけて、散歩にも行けるようになった。
が、その矢先今度は左足が痛くなった。
「痛い右足をかばっていたから左足が痛くなったのよ」と誰かが言った。
こうなると立ち上がるのにひと苦労である。

体重を持ち上げるのにこれ程大きな重圧(体重)が、膝に掛かっていたとは思ってもいなかった。
今更ながら健全な体の営みに、敬服さえしてしまう。
敬服はするが、痛みが和らぐ事はない。
「痛ッ イタイ!!」立ち上がるときの痛さはこたえる。 

一番困るのは正座が出来ない事だ。
よそ様の家にお邪魔した時など、膝を崩す無礼を詫びなければならない。
立つ時もどうやって立ち上がろうかと思案する。
掴まる所、どちらの足を先に立てるか、次に手はどちらに付けばいいのか等々、立ち上がるという簡単な動作がこんなにも難しいものとは....痛みをこらえながら「ヨイショッ!!」と立つ。

何とかならないものか.....ある日、フト試した事がある。 
テーブルにつかまって、足を後ろに伸ばしてみた。痛みは無い。両方伸ばしても痛くない。 
そのまま立ち上がってみると、何と膝に全然負担が掛からずに「スッ!」と立つ事ができた。
些細な事だが『膝に痛みを感じない立ち上がり方』を、新発見したような気になった。

それからというもの立ちあがる時は、先ず膝まずいて四つんばいになる。
足を後方に伸ばして『腕立て伏せ』の姿勢から手と足を近づける....そう前屈の体制に持っていくと、難なく立ちあがることが出来た。
これはいい方法だ。他人には見られたくない『無様な恰好』である。
動作は本当に鈍くなったが『背に腹は替ええられない』。
暫くは『ガタが来た肉体と向き合いながら』付き合っていくしかない。 
そう言えば.....年寄りがこんな立ちかたをしていたような気がする。

「嗚呼~しっかり老人になった証拠か 情けないなぁ~~。」  
しかし暖かくなったら、も少し体調も良くなるかも知れない。
ガタガタに「さようなら」。春に「こんにちは」と。 
桜、タンポポの咲く田舎のあぜ道を、春風を受けながら歩く姿を想像して一日一日を過ごそうと思う。【H・靖子】

    
春の便りも聞かれる頃になったが、私のところには「ガタが来た」。
足が弱いと言う事実を、最近になってやっと気が付いた愚か者である。今まで捻挫を含めれば、4回ほど足の病気を経験している。
『喉もと過ぎれば 熱さ忘れる』と言うが、治ってしまうと忘れるものである。 

1回目は、まだ勤めていた50代の頃だった。
医者に行くと「我慢できる位なら様子を見ましょう」と貼り薬をくれた。
「ひどくなったらブロック注射で 痛みをとめることができます」と、診断さ れただけで根本的な治療は施される事なく我慢するしかなかった。
通勤に使うミニバイクを動かす時も、停める時も、激痛が走ってかなりきつかった。
足が鉛のように重い。少し踏ん張ると痛みが走る。
踏ん張らなくても痛い。 
泣きたい位の痛みに耐えて、欠勤もしないで仕事をした。
嗚呼~あの頃は若かったんだなぁ。頑張りがきいたのだから.......

2回目は3年前になる。
「ぴょん!」と跳んだ拍子に、膝が「ぐにゅっ」として痛みが走った。
「やってしまったー」と思ったが後の祭りであった。

そして今回が3回目である。
昨年の10月中旬、ウォーキングの途中に微かな痛みを感じた。
「アッ!来たかも?」と予感した。
嬉しくない予感は案の定的中した。
階段の上り下りにも支障をきたした。

見かねた娘がマッサージに連れて行ってくれた。
” 鍼 " を勧めてくれたが、怖くて按摩にしてもらった。生まれてはじめての経験だったが気持ちが良くて、それまでの痛みも劇的に改善した。
しかし、あれから何回か行ったが、いまだに完全治癒には至っていない。
最近体がガタガタになった気がする。あっちもコッチも壊れてしまいそうである。

『ガタがきた.....』というのは、正にこの事だと思い知った。
「転ばぬように、躓かないように」と祈る気持ちである。
外見は美味しそうな大根足だが、まるでガラス細工のような繊細な足を労わりながら、気遣いながら、足のご機嫌を伺いながら、ソロリ、ソロリと歩いている。
闊歩する日が来るのかなぁ~。【H・靖子】
 

    
あっという間に1月も半分過ぎてしまいました。
北陸や東北、北海道など大雪注意報をテレビで見ると「本当に大変だなぁ」と思います。

石川県のⅠ-光信さん、富山県のF-ウメ子さん、宮城県のS-メイ子さん。お元気ですか? 寒くて長い冬を頑張って下さい。
 
さて、今日はお正月の食べ過ぎでサッパリした物が欲しくなりました。
以前、F-ウメ子さんが「美味しくて大好きよ。」と教えてくれた、茗荷(みょうが)のお寿司を作ろうと思っています。

昨年の夏、知り合いから『茗荷』を沢山戴いておりました。
コーヒーの空き瓶に丸ごと甘酢漬けにしていたその茗荷が、なんとも良い色に染まりました。    
この甘酢漬けした茗荷をみじん切りにして、鮭フレークと一緒にご飯に混ぜるだけです。  

淡いピンク色に染まり ” シャリッ ” とする歯ざわりと、フレークの濃厚な味がなんとも言えません。 
美味しくて又食べ過ぎてしまいそうです。
ひとつの料理を作りながら、そして食べながら、同級生皆さんの顔を思い浮かべています。 
今年も良い一年でありますように......【H-靖子】

【写真】昨年11月の大阪・関西同窓会。明石海峡大橋で「ここで記念写真を撮るぞ!~~集合~!!」と、白い服の幹事さんが号令を掛けるも中々集まらず......という一齣です。投稿記事にマッチする写真がありませんので......ガマンしてください。

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